2021-11-21 『ウォークス 歩くことの精神史』読み始め、『悪童日記』はもう少し
21:21
アゴタ・クリストフのこのドキュメンタリーを見たい。
https://youtu.be/rYIvGslGjA8
20:38
フランスに来てからわりとすぐにトライしたけど分からない単語がたくさんあり過ぎて、それでも読みたくてチャレンジしては挫折していた。当時は今よりも文法に慣れていなくて(文法を知っていても、queがどこまでかかるのかすぐに判別できなかったり、動詞なのか他のものなのかよくわからなかったりしてた)ひどく時間がかかって何度も投げ出した。
今なら少しはまし。動詞の位置でなんとなくこうかな?とわかるようになってきた。
知らない単語もまだあるけれど、知らなくても予想できたり、飛ばしてもいいかと判断できるようにやっとなってきた。遅いですね。
遅いけど、まあ良い。何と比べても仕方がないのだから。
「最近本を読めなくてこの先もずっと本を読むことができないんじゃないかと怖い」と友達が言っていた。私も本が読めなくなることについては覚えがあったのでわたしの経験の範囲で少しだけ話をしてみた。本を読むこともある程度は訓練だから読まなくなると読めなくなるということ、また読みたいのなら少しずつでも読んで行けばいいということ、別に読まなくてもいいと思うなら読まなくたって良いということ、集中できないなら集中するために指を文章に沿わせて読んだりスロットの空いている道具で1行に集中して読む方法もあること、そんなようなこと。
わたし自身は本を読むことが好きだし本から受け取るものがたくさんあるので本を読みたいと思うけれど、本以外のものから受け取るものごとが重要である人もいる。
私自身も、本を読むことや言葉から受け取り学ぶ事は多いけれど、多いからこそ同時に、言葉や他者が綴った文章から、自分が解ったような気になったり、真の感触を味わわないまま頭でっかちに固定されるかもしれない危険について、忘れずにいたいと思う。
14:49
うちの近くには墓地があって、でもその近くをゆっくり通ったりしてもまったく怖いとか変な感じがしないのは何故だろうとそばを歩きながら考えていた。
こちらの墓地はそもそも日本の墓地と雰囲気が違うというのもあるけれど、でもこれは自分の変化だという気がする。
そこにあるのはただ物質としての体で、鮮度…というと生々しいな、状態が違うだけでそこにはただ体がある、それだけ。からだは見えるし見えればなんとなく想像がつくからそんなには怖くない。からだのなかにある最新のようなものの方が余程ややこしいと思っているからなのかもしれない。
14:29
朝マルシェに行ったので耳で聞きながら歩いたのだけれど、はじめの3ページくらいでなにか感覚が細かく柔らかくなって、歩くことや見ることそのものを味わいたくなった。歩きながら読めると考えたけれど、これはなにかをしながらだともったいない。
街路樹の葉はもうだいぶ落ちて、自転車道に葉が溜まっている。自転車では小さなガラス片もパンクの原因になるから、こうして葉で隠されると怖いのだよな。
いつも通らない細い道、幅が腕を広げたくらいしかない。途中壁のむこうから盛り上がっている植物にその道の1/4くらいをさらに占領されていて、よかった。珍しく低いところにある換気口からおもちゃの機関車みたいに生活の湯気がしゅっしゅと出ていて、植物を避け、湯気を避け、楽しかった。
先週あたりから、うちの窓からトンボ式クレーンが急に見えるようになって驚いていたがその工事現場を通りかかる。煙突から何かを燃やしている匂いがしていたけれどこの辺りって暖炉解禁されているのかな?パリ市内はまだ暖炉の使用が禁止されているはず(公害の原因になると言われているため)。うちも暖炉を使いたいな。燃やすものはいくらでもあって、この冷たい石造りの家を温めるには暖炉が手っ取り早い。
煉瓦色の屋根におなかがぽってりしたカササギがいた。腹のまるみがみごとだ。触らせてほしい。
14:12
メモすることから離れていた。
体調や用事や気分に、習慣を乱されすぎる。
習慣というものが私にはなかなか定着しない。こうして一生「習慣づけをしなければ」と、自分は当たり前のことがいつまでも(ある程度努力しているつもりでも)できない、というほのかな敗北感を刻みこみつつ過ごすのか。